『サンダカン八番娼館』山崎明子著 筑摩書房
映画でも小説でも最初が大事だ。この本は、こう始まっている
「底辺女性史のプロローグ <からゆきさん>と呼ばれた一群の海外売春婦について書こうとして、いま、こうして机に向かってみると、わたしの瞼には、四年前の秋のある日、天草は下島の南部にあたる崎津町の天主堂で見たひとつの光景が、強く浮かびあがって消え去らない」
作者山崎明子は、この本で女性史を描くために<からゆきさん>と呼ばれる女性を書こうとしている。では、からゆきさんとは何者なのか?
それは、森崎和江著『からゆきさん』の帯に的確にこう書かれていた。
「女の性とは 故郷とは くにとは 国境に売られたキミは狂死した。南方では財をなしたヨシは凄絶な自殺を遂げた。ふたりの数奇な運命を軸に、厖大な資料を駆使しつつロマンで彩る幻想的ノン・フィクション」
昭和を代表する二人のフェミニストが題材にしたのが「からゆきさん」だった。
明治の日本は貧乏だった。多くの農民が餓死寸前の生活を余儀なくされていた。そのため天草の娘たちは「からゆきさん」となって海外に脱出して出稼ぎに出かけた。
この貧困の構造は現在にまで続いている。明治時代は「からゆきさん」。大正・昭和初期は「海外慰安婦」。昭和後期は、東南アジアの娘が「ジャパゆきさん」になった。
「サンダカンには、日本人のやっとる女郎屋が一番多くて、九軒あった。その次に多かとが志那人の女郎屋でな、朝鮮人や土人のおなごは、女郎屋にかかえられんで、ないしょで客を取っとた。あげんとを、密売淫というたいね。」
「九軒あった日本人の女郎屋には、宿屋ごたる名前はついとおらんで、一番館、二番館、三番館、四番館‥‥と、番号で呼ばれておった」。
この小説の主人公おサキさんは、八番館でお娼売して稼いだ金を故郷へ仕送りし、故郷の家族は彼女の仕送りで生活を支えていた。しかし、からゆきさんになった彼女らを故郷は、暖かく迎えてくれなかった。
物語の最後はこう綴られている。
わたしは本書の冒頭で、その老農婦の長く深い祈りの真意が、人間の原罪の消滅とかいったような観念的な希求にはなく、つまるところその果てしない貧苦の重みより救われたいという切ない願いにあり、そのかぎりにおいてからゆきさんと老農婦とは、同じ幹から分かれ出た二本の枝であると書いた。それぞれに骨身を削る心労を味わった彼女たちが、その貧苦から解き放され、幸福とは言えないまでもせめて人並みの生活を享受することができるようになるのは、はたしていつのことであろうか。その日が現実におとずれて来るまでは、<天草>という文字を眼にし、<からゆきさん>ということばを聞き、さらに<女性解放>という問題について語るたびに、わたしは、四年前の秋のある日、崎津の町の天主堂で出逢ったあの天草の老農婦の祈りの姿を、あたかも眼前にあるかのごとくに想起しないではいられないだろう-と思うのである。
これを読んで、ぼくは必ずサンダカンに行こうと決めた!。
そして、サンダカンにやって来てみたのだが‥。旅をしていると、時には厳しい現実と向き合うことになる。ここで、からゆきさん以上に深刻な犠牲者がいた。戦争というのは本当に惨いものだ。日本軍は「サンダカン死の行進」と呼ばれる、捕虜虐待行為をしていた。
サンダカン死の行進
太平洋戦争(大東亜戦争)中の1945年に日本軍が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所におけるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している。 『ウィキペディア(Wikipedia)』
旅に出ると、とんでもない事実にぶつかることもある。戦争責任に関しては戦後生まれの僕には関係ないと割り切っていたが、どうしても知らないで済まされない事実もある。 日本ではこの事実を知らされていないが、被害者の豪州ではこの悲劇は現在でも語り継がれ毎年政府主催の追悼行事が開催されているのだ。僕には、加害者の日本も「死の行進」で多くの捕虜が殺したという事実を伝えていく努力をしなければならないのでは‥。と、豪州が建立した立派な記念碑に向けて弱い声で呟くのが精一杯だった。