- 日時:2021年5月26日(水) 13:30~15:20
- 講師:医学博士 中山孔明
- テーマ:森 鴎外親子と台湾
- 参加者:30名(欠席者2名)
今回講演いただいた中山先生は、滋賀県出身で京都大学医学部を卒業された癌の専門医です。高校2年生まではプロのバイオリン奏者を目指されていましたが、両親の反対で医学の道に進まれました。大学の3年生までは、プロのオーケストラでバイオリン奏者もされていたそうです。
中国医科大学で23年間教鞭をとられ、その後は日本国内だけでなく台湾での講演活動も行われています。年間3カ月ほど台湾に滞在され、講演活動も45回ほどされているそうです。今回セミナーに参加された会員の多くは、台湾ステイに参加された際に、中山先生とお知り合いになられています。
関西支部においても、懇談会における講演(医学以外にも、断捨離、ぴんぴんころり等)を数多く行っていただいているだけでなく、「医療と健康」に関する同好会の講師もお務めいただきました。
現在は、コロナ禍でもあり、お孫さんの高校入試に向けた家庭教師に専念されているそうです。我達が森鴎外で思い浮かべるのは、小説家・戯曲家・翻訳家等ですが、鴎外のもう一面である医学者について、お話をいただきました。
鴎外は1,862年に津和野で代々医者の家(下級武士)で生まれました。創設期の東京大学医学部を19歳で卒業し、ドイツ留学を目指し陸軍軍医となります。衛生学の勉強にドイツ留学をし、世界的学者であるコッホに学びます。帰国後は軍医として順調に推移し、1907年からは軍医のトップである局長を8年務めました。軍医の傍ら、思いの強かった文学にも取り組み、1889年に「しがらみ草紙」という文芸雑誌を作り、文芸活動が本格化してきます。
「脚気細菌説」という初めて耳にするお話しもありました。若いころ「脚気になるから麦飯を食べろ」という言葉をよく耳にしました。白米が脚気の原因と思われていたのですが、脚気は白米でなく細菌が原因だとの説を唱えたそうです。
鴎外には4人の子供がいますが、長男の森於菟(おと)も医学者で、台北帝国大学(現台湾大学)で13年間教鞭をとりました。
日本が統治を初めた頃の台湾は、数々の伝染病に苦しんでいました。統治の初期に鴎外が、その後は息子の於菟が台湾の公衆衛生向上に寄与し、1905年には300万人の人口が、1940年には500万人にまでなったそうです。
残念ながら、台湾でも日本でも、森鴎外親子が台湾における公衆衛生に大きく貢献したことは知られていないようです。
以上