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世界文学紀行(7)ビルマ:マンダレー、バガン、バゴー 十河和 夫 記

随筆/雑記

『ビルマの竪琴』竹山道雄著 新潮文庫 平成22年6月10日 百三刷

ビルマ:マンダレー、バガン、バゴー

ビルマ(ミャンマー)の軍隊によるクーデータが終結しそうにない。

つい最近まで、軍事独裁政権を強いてきた軍隊だ。「我々は海外からの圧力には慣れている」と軍の幹部が言っている。

何時まで続くのだろう。心配だ。

さて、今回はミャンマーを舞台にした『ビルマの竪琴』を紹介します。

最近ではミャンマーと呼ばれているが、僕たちの年代では「ビルマ」の方がしっくりくるのではないでしょうか。

・「ビルマの竪琴」は、ノンフィクションか童話か?

ビルマの竪琴は、「赤とんぼ」という子供の雑誌に連載されたものだ。つまり、この作品は子供向けに書かれた童話であって史実ではない。竹山もビルマには行ったことがありませんと書いている。

しかし、竹山は「私の知っていた若い人で、屍を異国にさらして、絶海に沈めた人たちのために書いた」とも言っている。そのため、これを鎮魂の書として受け取った読者も多かった。

・本書に感動した読者も多いが批判する読者も多くいる。

この物語の出だしは、

「兵隊さんたちが大陸や南方から復員してかえってくるのを、見た人は多いと思います。みんな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子です。中には病人になって、蝋のような顔色をして、担架にかつがれている人もあります。こうした兵隊さんたちの中で、大へん元気よくかえってきた一隊がありました。みないつも合唱をしています」

この部隊は、タイのバンコクからビルマのラングーンまでを結ぶ「泰面鉄道」を守備するための部隊だった。泰面鉄道は多くの捕虜を酷使したことで有名だが、こうした事実はこの作品では一切書かれていない。竹山も言っているように、この作品は戦後の荒廃した人々の心を慰めるために書かれた物語なのだ。人々は、現地に残って遺骨を収集する兵士がいるという物語を、事実であると受け取って感動したのだろう。

批判した人の批判は三点に集約される。

「戦争責任を天皇制や国家機構ではなく、日本人一般、人間の問題にすりかえた」

「戦争責任を無力な個人に還元している」

「水島一人で責任をとらしている」。

もっと他にも些末な批判があるが、要は戦争という国家の責任を個人に任せてしまうということが問題なのだろう。

この小説が、前回紹介した「レイテ戦記」のような史実を忠実に描いた作品ならこの批判は当然だが、「ビルマの竪琴」は童話なのだ。厳しすぎると思ってしまうのだが‥。

・しかし、作品には根本的に間違っている箇所がある

この作品にはビルマの人々を怒らせる場面がある。水島が、戦争終了後も抵抗している部隊に戦争が終わったと説得に行くが、かえって反発されて戦闘になる。それに巻き込まれて気を失った後での話だ。彼は、現地の人に救われるのだが、彼を救った人たちを野蛮人で人食いであったと書いているのだ。「冒険ダン吉」を意識したのかも知れないが、ビルマには人食いの習慣は無い。このため、ビルマでは映画の上映を禁止された。

・僕は、2015年2月にビルマを旅行して、「ビルマは敬虔な仏教徒の国か」というレポートを提出した。以下はそのレポートからの抜き書きです。

(1)マンダレーにて(2015年2月7日)

マンダレーの東北に標高263mにぽっこり隆起した丘全体が聖地となっているマンダリーヒルがある。日本で言えば三輪山のような存在である。頂上まで歩いて1時間ぐらい。南参道入口には通称チンテーチーンックン(チンテーがライオン、チーンックンがふたつのという意味)が守っていて、ここから裸足になり階段を登る。「予言を与え給う仏陀」で有名な仏像は急な階段を登り切った所にあった。

この仏陀には、お布施をするものが何もないことに悩んだあげく自分の乳房を仏陀に献上(すごい!)したサンダームキ(鬼)に対し、仏陀は現在のマンダレーの方向を指さし、「お前は来世では王になり、そこに町を造るであろう」と予言を与え給ったという言い伝えがある(地球の歩き方「ミャンマー(ビルマ)」P129)。私はこの伝説を読んだとき、違和感を感じた。それは乳房を献上された仏陀が本当に喜んだのかという疑問を持ったからだ。人を救うはずの仏が、自分を傷つけた献上を喜ぶはずがない。ではなぜこのなうな伝説が生まれたのか?

・マンダレーヒルの中腹に立派な日本人慰霊碑が建立されている

日本人慰霊碑には、「緬旬方面彼我戦没諸聖霊」碑文が刻まれている

ミャンマーで戦没された日本・ミャンマー・英国すべての人々が怨親平等に安らかに永遠の眠りにつかれることを祈ります

For all Japanese, Myanmars and English victim of the war,we pray for their souls to rest in peace here forever.

碑文の中の「怨親平等」とは、「(仏教用語) 敵・見方の差別なく、絶対平等の慈悲の心で接すること。日本では一般に、戦いによる敵味方をとわず、一切の犠牲者を供養し救済するなど、平等に応じる意味に使われる」仏教徒の国らしい用語を使用している!

(2)バガンにて(2015年2月9日)

東南アジアの三大仏教遺跡の一つであるバガン。広大なエリアに、大小さまざまな寺院や遺跡が点々と連なって林立している。 点在する仏塔はあるものは大きく、あるものは小さい。が、そのほとんどは無人で、壁が崩れていても放置されたままだ。

バガンで最も美しい寺院だと賞賛されている、アーナンダ寺院を見学する。四方に鎮座している4体の仏像は荘厳で、仏教徒を優しく見守ってくれているようだった。参拝している信者も熱心で、私はこの光景をみると、ビルマは「敬虔な仏教国」に見える。

しかし、バガンの南東50kmにあるポッパー山ツアーに参加して、その見方がまた違ってきた。ポッパー山は、ミャンマーの土着宗教であるナッ信仰の聖地。一説によると、この岩塔、ポッパー山にあるクレータと形も大きさもほぼ同じで、過去の大噴火の際、山頂部が吹き飛ばされて現在の場所に落下したものという。

ビルマでは、仏教の他、強い霊力を持つナッ神が信仰の対象になっている。仏教は欲望を超越することを教義にしているため、仏教に願い事をするのは本来、許されないことである。そこで庶民に欲望をかなえてくれる神である「ナッ神」に願いをかける。

山の麓の門から、裸足になって急階段を20分程登ると、頂上の手前にナッ神が祀られていた。ナッ信仰の神髄は現世利益である。ビルマ人の祈りは、第一に商売繁盛、健康祈願、人間関係の改善の順だという。

ポッパー山の主は、ミン・マハーギーリ・ナッであるが、このナッ神には悲劇の物語がある。昔この地域にダガウン王国があり、力持ちの鍛冶屋がいた。兄はハンサムで剛健だった。彼が仕事場で大槌を振るった時は町全体が振動したという。彼の謀反を恐れたタガウンの王は妹を后にして兄を城に招いた。森に逃げ込んでいた兄だが、妹のために城にやってきたところを捕まえられ火炙りにされた。それを知った妹はすぐに火の中に飛び込み兄とともに死んだ。こうした悲劇的な死を遂げた兄妹はナッになり祀られてポッパーの主になった。ここにはこの兄妹を含めて37のナッ神が祀られている。(池田正隆「ビルマ仏教 その歴史と儀礼・信仰」P203)

パゴダ境内には、ウェイザー(超能力者)の像も祀られている。彼らは修行により超能力を得た者で占星術師でもある。時として、権力者と結びついていて、国家の運勢や未来を占星術で予言する。さらに、政敵を黒魔術で呪殺すると信じられている。現在の軍事政権も専用のウェイザーが顧問となっている。

このナッ神が祀られている祠を過ぎると、登り場に到達する。頂上には小さなパゴダと狭い祠が肩寄せあって建っている。が、そこに祀られているのは小さいが仏教寺院だった。

ここで疑問を持った。ナッ神の聖地であるのに山頂に祀られているのは仏教寺院であるのはなぜなんだろう?

水島が、人食い族から脱出できたのは,竪琴の曲でビルマの精霊を宥めることができたからであるとかいてある。人食い族が崇めていたのが「ナッ神」だ。

 

・バガンにも日本軍の慰霊碑がある

バガンのタビニュ僧院の一角に、この国で亡くなった日本兵の鎮魂、慰霊碑が建立されている。

「鎮魂」の2文字を刻んだ四角い碑の願主は「弓兵団」の戦友会。脇には「弓部隊戦没勇士の墓」と書いた墓碑。

第二次大戦中、日本軍は32万人を超える将兵をビルマ方面軍として派兵した。

そのうち生きて故国に帰ることができたのは約13万人にすぎない。約19万人が死んだ。それも多くは戦死というより病死さらには餓死である。中でも悪名高いインパール作戦は白骨の山を築いた。

(5)バゴーにて(2015年2月17日)

バゴーで有名なのがシュエターリヤウン寝仏である。そこは「ビルマの竪琴」の舞台だともいわれている場所で、ここにも仏像の両端に精霊(ナッ神)の像があった。その他、何カ所かの寺院を見物したが、みんな同じ様に見えてきた。寺院とは観光するものではなく、礼拝する場所であると、あらためて感じた。

随筆/雑記

コメント

  1. 高原政玉 より:

    いつも楽しみに読んでいます。十河さんは「バックパッカー旅の達人」だと聞いています。貴重な経験談を今後も期待しています。

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