世界 文学紀行(6)フィリピン、レイテ島・セブ  十河和夫 記

随筆/雑記

「レイテ戦記 (上)(中)(下)」大岡昇平 中公文庫 2004年11月 24刷

名著と言われている作品の中には読んでいる人は少ないという本もある。

今回紹介する『レイテ戦記」もその内の一冊だろう。

10年以上前にセブの語学学校に1ヶ月留学した。その時、プラザ・インディペンデンシア公園内の慰霊碑と出会った。

銘板にはこう書かれていた「建立の趣旨 第二次世界大戦において、ここセブ島の陸に海に多数の日本人フィリピン人が散華されました。この方々の御冥福を祈るとともに人類最大の不幸である戦争を再度くりかえさないことを誓います。この碑が日比両国の永遠の平和と友情を培う礎石となることを心から願うものであります]

その時、なぜここに立派な慰霊碑を建立する必要があったのか疑問に思った。

2011年8月、その疑問を解くための羅針盤として大岡昇平の『レイテ戦記』を選んだ。僕はその文庫本3冊を胸に抱いてフィリピンのセブ島に飛び立った。

その時の旅の成果は、通学していた園田女子大学シニア専修コースの旅とフィルドワーク誌に「レイテ島の慰霊碑にみる日本人の宗教観」という題で提出した。

下記の文書はその一部です。

(2)レイテ島になぜ慰霊碑が必要になったのか?

レイテ島の戦闘は他の地域の戦闘に較べて悲惨な戦闘であったため、レイテ島の戦死者は怨霊になるしかないような状況に追い込まれた。

悲惨な戦闘とは次の様な理由による

①レイテ島の戦闘は他の地域に較べて生存率が極端に悪い

生存率の低さだが投入兵力84006名に対して生存者は4745名、生存率5.6%という低さである。

②レイテ島での死亡の理由が病死、自死、疲労死が多い。

大岡昇平は「こういう孤独な人間関係のうちにあって、兵はたやすく自殺したという。食料入手の見込みがない、あるいは一番大事な脚の負傷が癒らない、あるいは下痢が癒らない、というような単純な理由で、病兵は突然群れから離れて手榴弾(がもし残っていれば)を抱いて自爆した。あるいはバンドを木の枝にかけて、縊死してしまった」と書いている

③山中の大量餓死。餓死に襲われた軍隊内では人肉まで食べた

負け戦で山中に逃げ込んだ兵を待ち受けていたのは飢餓である。山中には食料が何もなかった。そのため、多くの兵が山中で餓死。そうした極限状態のなかから人肉を食べてたという噂が残されている(状況証拠も多く残されていた)。もちろん、今となっては唾棄するような行為であるが、「死んだ戦友の肉を喰って体力をつけ、永久抗戦する。戦友は許してくれるはずだ」と正当化する者もいた。

④レイテ戦闘は、現地の兵を犠牲にした戦闘でしかなかった

レイテ島の戦闘は、あくまで本土決戦を戦うための大本営の遷延作戦の一環でしかなかった。そのため、弾薬食料の補給もなく。負傷兵を治療すべき薬もない。戦いはすでに敗北していた。が、大本営はフィリピンの現地司令官に降伏の自由を与えなかった。もし、もっと早く降伏しておれば、日米両軍の無益な殺傷、山中の悲惨な大量餓死と人肉喰いは避けられた。

若林紘一郎さんのお父上が戦死されたブラウエン飛行場の戦闘も、『レイテ戦記(中)21 ブラウエンの戦い』の章で詳しく書かれている。

ブラウエンの戦いは12月6日~7日にかけて行われ、2日間の戦いで日本軍は敗退した。

「ブラウエン作戦は、成功すれば儲けもの、一応の宣伝効果がある、という程度にしか評価していなかったと思われる。作戦がかりに成功したとしても、戦火拡大について大本営と方面軍の間に紛争が起こり、時期にかなった有効な処置は取られなかったであろう」

大岡は大本営に怒り方面軍にも怒る。怒るには理由がある。このような悲惨な結果を招いたのは誰かを徹底的に事実を積み重ねたうえで怒っているのだ。

この本の最後は、次の文書で終わっている。

「レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遭うかを示している。それだけでなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の身に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。(完)」

終わりでは無く完である。レイテ島に眠る戦没者の遺骨が総て収集されない限り死者は語り続けているのだ。

3.セブ、レイテ島の慰霊碑

では、慰霊碑はどのように建立されているのか、私が現地で調べたいくつかの例を次に紹介する。

(1)工兵碑(レイテ島)

 碑の銘板にはこう記載されている「1944年此の峠で工兵第一連隊及び師団防疫給水部が奮戦し大半の将兵が戦没した英霊は安らかに眠り給え祖国の平和に御加護あらんことを 合 掌   1983年8月」 工兵隊は、軍用道路や橋を作る部隊である。山を越えて進撃するための道を切り開きオルモック街道を確保する作業にあたっていた。戦闘員ではなく後方支援部隊である。しかし、工兵第一連隊690名全員が戦死となっている。

(2)リモン峠山上(レイテ島)

「12月9日、リモン北峠上の57連隊、第1連隊は、人員 弾薬共に減少し、殆ど戦力として存在するのを止めてい た。眼下のリモン川下流一帯が米軍の後方陣地になり、 テントが立ち並び、ショーツ一枚の米兵が呑気に出入り するのを目の前にしながら、撃ち込むべき迫撃弾もなく、 切り込みをかける気力も失っていた」大岡昇平『レイテ戦記(下)』の冒頭の部分だが、日本軍は以後12月21日の転進まで、第一師団の将兵は「首切り稜線」と呼んだリモン峠と。「死の谷」と呼んだリモン川一帯で玉砕寸前になるまで戦い続けた

(3)パロ教会前広場(レイテ島)

 教会の前の広場では激しい戦闘があった。『レイテ戦記』では、広場を占領した米軍に対して夜間フィリピン人を盾にして切り込んで打撃をあたえている。
弾も少なくなり、反撃の見込みもなくなった状態から、卑怯でも何でも一矢を報いたいという感情からだろう。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがある。日本の文化はむしろ卑怯を憎む事にある。戦国武士もヤクザの中にも卑怯者は卑下されたはずだ。 日、米、豪、比の慰霊碑が並んで建てられている。日本碑には「日本兵勇士の霊に合掌する 古兵」と刻まれていた。私はこの古兵としか刻まなかった建立者の意図をおもんぱかった。そこに、フィリピンの人に対する懺悔の気持ちが含まれているのだろうかと想像したのだ。

(4)ビリヤバの慰霊碑(レイテ島)

カンギポット山を越えた西海岸の最大の町ビリヤバに立派な慰霊碑が建立されているが、レイテ島に詳しいジュンさんもこの慰霊碑の場所を知らなかった。ビリヤバの集落に入ってから村の人に聞きながら到着する。高台の上に慰霊碑と祠が建設されていた。

(5)プラザ・インディペンデンシア公園内の慰霊碑(セブ島)

銘板にはこう書かれていた「建立の趣旨 第二次世界大戦において、ここセブ島の陸に海に多数の日本人フィリピン人が散華されました。この方々の御冥福を祈るとともに人類最大の不幸である戦争を再度くりかえさないことを誓います。この碑が日比両国の永遠の平和と友情を培う礎石となることを心から願うものであります]

(6)タブエラン市の慰霊碑(セブ島)

「この碑は日比間の平和と親善を推し進める為に、ジュアン・アールバングレオ・ジュニア氏夫婦の深い理解と協力により、オリボ小学校に建てました。之は亦、第二次世界大戦(1941~1945)間、セブ島で戦って亡くなった日本の第一師団の人々やフィリッピンとアメリカの方々の慰霊に捧げるものでありま す。心からご冥福を祈ります。」その碑の横に「オリボ川上流5キロで戦死した最愛の兄田中正一曹長を追悼して」が建てられていた。

(7)セブ観音(セブ島)

 セブ・シティの北、ブサイ・ヒルズの中腹に聳えたつ、マルコポーロプラザホテルに「セブ観音」の青銅像が建立されている。高さは台座を入れて4.6メートルになる。建立者は元セブ海軍部隊司令官の岡田貞寛元少佐。観音建立に至った経過を彼はこう述べている。銘板にはこう書かれていた「さきの第二次大戦に於いてセブ島及びその周辺地域で戦死されたすべての方々の御冥福と永遠の平和を祈ってここにセブ観音を建立する

(8)陸軍病院跡にある慰霊碑(セブ島)

 戦時中の日本陸軍病院跡に「慰霊碑」が建立されている。正面に赤十字マークがあるだけで文字は何も書かれていない。普通なら平和を祈るだとか戦没者を悼むとかという文字が書かれて当然なのだが。これについて、フィリピンの日系新聞であるマニラ新聞に興味ある記事が記載されていた。「謎秘める陸軍病院跡」という見出しで、「病院跡に立つ慰霊碑には正面に赤十字のマークがあるだけで文字は何もない。そして下端に「南方第14陸軍行院関係者」とあるだけだ。 赤十字マークの病院を空爆した米軍への「無言の抗議」だと私は読み取っている。アメリカ極東軍事裁判が公平であれば、この病院を空爆した兵士は恐らく裁判にかけられたであろう。爆撃を受けた日系の看護婦は一時精神に異常を来しながらも、今も存命中だ。

 

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