『愉楽の園』宮本輝 文藝春秋 1989年5月15日 第三刷
Lsc会員にも宮本輝ファンは多いと思う。僕は、『泥の河』『道頓堀川』時代からのファンだ。大阪を舞台とした作品が多いのでとっつきやすい、最近では十三を舞台にした『骸骨ビルの庭』がある。
今回は、Lscに人気のあるタイ(バンコク)を舞台にした作品『愉楽の園』を紹介したい。
水の都バンコク。熱帯の運河のほとりで恋におちた男と女。甘美な陶酔と底知れぬ虚無の海に溺れ、そして脱け出そうとする人間を描いて哀切ここにきわまる宮本文学。(浅井愼平)
内容は恋愛小説だが、宮本輝はこの小説にタイを理解するために必要な三つの知識を埋め込んでいると僕は感じた。その三つとは、
1.タイは階級社会である。支配階級(クンナーン)と被支配者階級(プライ・タート)が明確に区別されてい る。
2.タイの政情は不安定で、軍事クーデターと学生革命が頻発している。
3.タイのセックス産業は独自の道を歩んでいる。
1.タイは階級社会である
タイでは、身分によって日常生活や職業も制限される。
主人公の藤倉恵子(被支配者階級)は、タイで知り合った男(支配階級)に囲われて彼の旧邸に住んでいる。旧邸には二人のメイドが住み込んでいる。その内の一人のチェップは「サンスーン・イアムサマーツを心から尊敬している様子だった。サンスーンがこの家に来ると、ひざまずいて合掌した。それはサンスーンが、王室の血を引く人間で、第十何番目かの王位継承権を持ち、内務省の高官でもあったからである」そして、恵子には「ふん、この囲われ者が」とつぶやいている。タイ人にとって階級で差別するのがあたりまえなのだ。
2.政情が不安定
この作品は、学生運動に参加し、権力から弾圧されたため地下に潜った男が書いた小説がキーワドになっている。それを利用しようとする権力とそれを阻止しようとする反権力との争いに男女の時には男と男の恋愛が絡むストーリーになっている。。
タイでは有名な学生革命が二つある。1973年10月13日の「血の日曜日」。1976年10月6日の「血の水曜日」だ。
政府は学生や市民のデモの隊列鎮圧のために戦車やヘリコプターを出動させ、銃撃でデモ隊に四百人以上の死者が出た。「血の水曜日」の惨劇である。
その結果、弾圧をおそれる数千といわれる学生、知識人がジャングルに逃れ、タイ共産党(CPT)の武装闘争に加わった。その暗い歴史を踏まえたうえの話だ。
このようなタイの政情に対して作者は、サンスーンにこう語らせている「私は、そろそろエカチャイを、古巣に返す時期が来たように思っている。(中略)クーデターの一件で、軍部における陽当たりのいい場所から外され、私の護衛官という役に甘んじている。しかし、時期は来たよ。エカチャイのグループを利用して火をつけ、それを自分で消して得点を稼ぎ、同時に学生を利用して共産主義者を煽り、邪魔者を失点させて、まんまとその男の更迭に成功した例の古狸は、いま少々窮地にある。国王は何もかもご存じだった」王族と軍部が利用し合いながら権力闘争をしているということを匂わしている。
3.セックス産業
タイがセックス産業に寛大な国であることはよく知られている。それを、どう捉えるのか?難しい問題だ。ただ、考えるヒントになるのが、チェラロンコン大学のパスク助教授の調査『百姓の娘からバンコクのトルコ嬢へ』だ。
ここでパスク助教授は「タイにおけるセックス産業の発展は、いくつかの歴史的、経済的、社会的要因が積み重なって独自の形態をなした結果として見なくてはならない」と書いている。
そうか、複雑な問題なんだ。ここで道徳的な批判などしても何ら解決にはならないことなんだ。
作品でも主人公の一人の野口が置屋から少女を買春する場面がある。置屋から少女を知り合いになったテアンの母マイの家につれて戻る。ここで野口はその少女を抱く。
野口はここでこんな自問自答する。この場面がこの小説の確信だと僕は思うのだ、
「そうだ、マイの言うとおりだ。俺は、ここに得たいの知れない愉楽の巣を感じ、テアンの、肉体だけは決しておとなになれない病気の根を感じたのだ。それを知って、何がどうなるものでもない。だけど、何がどうなるものでもないことをさぐることが、俺の旅だった。」
野口は、旅を続けた末ここが「愉楽の巣」であることを発見した。
この作品では、ホモ(ゲイ)の性についても踏み込んで描いている。タイは「LGBTの楽園」とも呼ばれている。観光立国であるタイは2012年、「LGBTツーリズム」に本腰を入れ始めている。キャッチコピーは「Go Thai…Be Free(タイに行って、自由になれ)」だ。
性についての好みはそれぞれ違って当たり前だ。時代はLGBTでも登場人物として自然に描けるようになったのだ。と、ぼくは感じた。
旅のアドバイス
・バンコクへ遊びで訪れる旅人は、間違っても「愉楽の園」を探さないこと。危険です!
・バンコクでは日本人は常に「被支配階級」に属している。ただ、金持ちは「ナイハン(旦那)」と持ち上げられているかも知れないが、それは成金と同じ意味だ。
・『愉楽の園』を理解するには、映画「バンコクナイツ」が良い参考書だ。