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2026 高雄ロングステイ(5)鍵山 眞由美 記

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1月18日:竹田文庫訪問(正式名 池上一郎博士文庫)  
温故知新」ふたたび。かつて台湾にz残した日本人の足跡をたどると、新たな視点が開けてきます。

鉄道を乗り継いで1時間余り。日本人にゆかりの深い竹田文庫を訪ねました。アジア最南端の日本語図書館といわれています。竹田文庫の理事長さんにご縁の深いYSさんが引率してくださいました。

車窓から見えるのは台湾で2番目に長い川、高屏渓(こうへいけい)。ここにかかる橋は、「東洋一の長さを誇る鉄橋」(1.5 km) だったそうです。工事に関わった飯田豊二技師は、1913年の完成を待たずに亡くなっています。実はこの橋…

途中で途切れているんです!2005年の水害で橋脚が流されたあとは、歴史的建造物ということで、あえて再建されず、現在は橋の上を歩ける観光スポット「天空歩道」になっているそうです

飯田豊二技師

到着した竹田駅。そもそもなぜここに、日本式の立派な木造駅舎が残っているのでしょうか。この小さな駅の歴史を紐解くと、近代台湾の発展が見えてきます。これは、竹田文庫の理事長さんから伺ったお話です。

昔は不毛地帯だったこの地域。荒地でも育つビンロウだけが人々の暮らしを支えていました。ビンロウの実は噛みたばこのように用いられ、酩酊感が味わえる、いわば「合法ドラッグ。

そういえば、こんなお店、街中で見たことがありませんか。これぞビンロウの販売店です。

この不毛地帯に品種改良された「蓬莱米」を生み出したのが磯永吉農学博士。ダムを建設し、大規模な治水工事により農業に貢献したのがご存じ八田與一。そして、あの鉄橋の技師、飯田豊二。彼らはほぼ同時期、1900年代前半に活躍していました。(台湾で活躍した日本人については、「葉園長と親日台湾の由来詳しく書かれています。)

磯永吉農学博士
八田與市技師

竹田駅周辺は米だけではなく、サトウキビの大産地にもなりました。雨季にはサトウキビ、乾季には米を作る技術があったのです。竹田駅の旧名は「頓物(とんぶつ)」=荷物を積み上げる場所。それほど、どっさり作物が採れるようになったのです。

竹田駅正面には、大和頓物所(だいわとんぶつしょ)跡地があります。築80年で、こちらは精米所として利用されていたとか。

こちら、リノベーションして今はカフェとして用いられています。それとは知らず、わたしたちは最後にここで休憩しておいしいコーヒーを飲みました。大変人気のあるカフェです。歴史的建造物だったんですね~!

サトウキビは「製糖鉄道」により、例の製糖工場に運ばれます。集められた米や砂糖は竹田駅で国鉄(縦貫線)に積み替えられ、高雄港を通じて日本本土へ輸出されました。農家は食が潤うだけでなく、収入も急上昇!

写真は台湾で最後に残る製糖列車(虎雄) 
https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/album/17/photo/84201.html

やがて時代を経て、この古い駅舎は一度、取り壊しの決定を受けます。しかし、地元住民の猛烈な反対運動により、保存されるに至りました。台湾の人々は、この地を発信地として、台湾全土を発展に導いた日本の人々への深い感謝の念を忘れませんでした。

駅舎のそばには無かその姿そのままの、井戸やお風呂も。

では、竹田駅と竹田文庫との関係とはなんだったのでしょう。竹田文庫の正式名は「池上一郎博士文庫」。池上博士は第二次世界大戦の戦況が厳しくなる中、竹田に赴任してきた軍医でした。

物資も薬も不足する中、「病人に軍人も民間人もない」と、博士は地元の人々に対して分け隔てなく、無償で診療を行ったといいます。その献身は戦時下の不安を抱える住民たちを支え続けました。

博士は帰国後も 竹田の人々と交流を続け、晩年は自身の退職金や集めた私蔵書、寄付金などを竹田に贈りました。これが文庫の基礎となり、そして、診療室として使われていた駅の事務室が「竹田文庫」となりました。

理事長さんの熱烈なお話に聞き入っていると、いつのまにか、お昼を過ぎてしまいました。周囲に食事をする場所もなく…するとなんと、理事長さんが、自転車に飛び乗り、私たち全員分の湯麺を買ってきてくださったのです!

理事長さんの言葉、「ここは単なる蔵書の保管所ではありません。<献身と感謝>の象徴なのです。」「台湾人は単にここに本を借りに来るのではありません。過去との交流を求めに来るのです。」このような言葉が印象的でした。

自分が生まれるずっと前に受けた恩を、今起こっているかのように感謝し続けている人々が竹田にいます。

編集、写真 鍵山 眞由美 


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