LSCに入会して私の一番思い出の深い旅は二度にわたるフィリピン・レイテ島での慰霊の旅であろう。世界各地をステイしたり旅行したり経験豊富な人材がたくさんいるLSCならではの実現した旅であった。
一度目は、台湾高雄ステイ中にたまたま私の父がレイテ島で戦死したことを花田さん正木さんと食事をしていた時お話ししたところ、話が盛り上がり正木さんの提案で、LSCで「レイテ島戦没者慰霊ツアー」を実現しょうということになった。
その為にはレイテ島の事前調査が必要でフィリピンの事情に詳しい花田さんの協力で私と事前調査をしょうということになった。
ダバオ在住が長い花田さんは事前に綿密にレイテの状況、地理の調査をされ翌年、積年の願いであったレイテ島慰霊調下見の旅が実現した。レイテ島のタクロバンは数年前に大きな台風に見舞われており、治安も悪いと思っていましたので私だけでは到底実現は無理だと諦めていました。本当にありがたいことでした。
当日私は関空からセブ島着で花田さんはステイ地のダバオからセブ島に来てくれ落ち合った。
翌日航空便でセブシティからレイテ島タクロバン市着、ホテルに宿泊。
翌日、花田さん、私、フィリピン女性通訳、ドライバー4人で調査隊を組みレイテ島タクロバンからブラウエン、リモン峠など激戦地の戦没者慰霊碑を探索しに向かった。
丸1日で巡る予定で各場所も遠く離れているのでタクシーを1日チャーターする。
フィリピン生活で慣れている花田さんが運転手と交渉し午後5時まで1日4000ペソ(日本円1万円強)で交渉成立、出発した。
私の父はブラウエン飛行場で32歳で戦死という公報が入っているがもちろん遺骨もなく、戦死場所もはっきりわからない。先ずブラウエンに向かう。タクロバンから南西60kmの山麓部に位置している。
車中からは雄大な景色が延々と続く。ところどころに水田があり、はるかかなたの雄大な山の裾野には椰子の林が延々と連なっているのが見える。昔戦争があったとは思えない静かな平和な風景だった。道路は思っていたより舗装がされていて快適で、両側にパラパラと民家があるところがブラウエンだった。
タクシーの運転手が村人に慰霊碑がどこにあるか聞いてくれる。知らない感じだったので私もネットで調べたブラウエンの慰霊碑の写真を見せて一生懸命説明した。別のところで聞くと道路わきに一か所あるという。
行くと囲いに囲まれて碑らしきものが二つあった。
一つは「平和之碑」と書いてあり2006年に静岡県が建てたものだった。
我々はフィリピンに来て初めて見た碑だったので皆でお祈りをした。
平和の塔 左側の一番手前の人がKさん |
車に帰りどうするか相談していると通りがかりの人が日本語で声をかけてきた。何とKさんという日本人でマニラで長年住んだのちブラウエンに来て5年になるがフィリピン人と結婚して娘もいるという。これは何かの引き合わせだと思った。
我々は慰霊で来たというと少し離れたところにある慰霊碑に連れて行ってくれた。そこは道路から10数m入った小高い所にある「平和の塔」と書いた碑で高さ3mはある大きな慰霊塔だった。
京都の遺族会が1977年に建てたものだった。私は持参した日本酒と菓子をお供えし線香を立て皆でお祈りをした。ようやく長年の念願が叶い感無量だった。Kさんは時々ここを整備して管理してくれているとのことで綺麗に草も刈ってあった。
ブラウエン飛行場跡があるか聞いたが知らないという。飛行場がもうどこにあったか分からないほど年が経過しているのかと思い、今回は行くのをあきらめた。
最後にKさんの住所、電話、アドレスを聞き、気持ちのお礼を渡して別れた。
次に激戦地だったリモン峠に向かった。レイテ島西北部にあり100キロ以上離れている。
リモン峠の戦いは日本陸軍第1師団が米軍と激突し、レイテの戦いの中でも最も激しい死闘を繰り広げ約3万人という最も多くの日本兵が戦死を遂げた。リモン峠から吹く風は遥か望める青く霞むカリガラ湾へ抜けていく。その風に運ばれ海を越えて靖国神社へと彼らの魂は還っていったのでしょうか。
峠の手前に「鎮魂の碑」がひっそりあり峠の上には木製の「第一師団戦没者英霊の碑」と「鎮魂の碑」があった。
鎮魂の碑 近所の住人家族がずっと見ていた |
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第一師団戦没者英霊の碑 鎮魂の碑 |
レイテの戦いで投入された日本兵約84000人、日本への生還者2400人であった。
戦後70年の節目に慰霊参拝に行くことが出来、大変嬉しかったです。
考えれば、戦後70年間も被害者だったフィリッピン住民が、あちらこちらに散らばる慰霊碑を壊さず守ってくれたことに深く感謝の念を抱きました。