シュムリアップからプノンペンへ
シュムリアップからプノンペンへは、トンレサップ湖からトンレンサップ川を船で下る予定だった。
それが、現地に来てみると観光船は休止だ。スピードボートも運休している。乾期だから仕方ないか。
バスでプノンペンに向かう。
プノンペンは、メコン、トンレサップ、バサック--この3つの川が交わる地に広がる街だ。
ラオスの首都ビエンチャンを流れた水がカンボジアの首都プノンペンまで流れてきたのだと思うと感慨深い。
ぼくが、初めてプノンペに旅行したのは2014年で『カンボジアの赤いブランコ』の本を携えていた。
本のコピーは「内戦で荒れた国に学校を建てよう」と呼びかけていた脚本家、小山内美江子氏の誘いに応じて出かけた若者たち。猛暑、ほこり、荒れ地の中でのブランコ作りは、若者たちの“課外授業”だった…。
ぼくは、若者の行動に単純に感動した。そして、行動は出来ないがこの地で何が起きたのだけは観ておこうと思った。
そして、ぼくは見た。あまりにも残酷な現場を‥。それが、「キリング・フィルド」と「トウール・スレン博物館」だ。
帰国後、タイミング良くカンボジア映画界初の女性監督ソト・クォーリーカーが手掛けた『シアター・プノンペン』が公開された。
カンボジアの反政府組織“クメール・ルージュ”の圧政を背景にした母と娘の壮大な物語だ。
ポルポトを知らない若い世代とその親の葛藤の物語だ。そこで何が起こったのか?
戦争は、起こる前も戦闘中も、そして終わった後も苦悩を押しつけてくる。
今回も、妻と二人で現場を訪れた。歴史は時間が経つに従って現場の生々しさを風化させていく。でも、忘れてはならない歴史はある。
それが、この現場だ。
石川文洋「戦場のカメラマン」にはこう書かれている。長くなるが紹介します。
「1979年2月、ポル・ポト政権崩壊後プノンペン入りした私たちが、ポル・ポト政権虐殺の事実を報道した時は、日本において、虐殺を否定する声が多かった。その声の大部分は、ベトナムはカンボジア侵攻を虐殺説でカムフラージュしようとして、現地を取材したジャーナリストはそれに惑わされているものだというものだった。(略)
もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟です。
しかし、今後カンボジアの現地で、いろいろな形で調査が進むにしたがって、私の想像以上の残酷な虐殺の事実が明らかにされていくと思います。」
戦場カメラマンの責任は重い。僕たちは彼らによって真実を知ることが出来たのだ。
ベトナム戦争の時、外国人特派員クラブがあったビルは、レストラン(F・C・C)に姿を変えていた。
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